R008[戯言]約20年の行き違い

昨日同僚と昼飯どきに雑談してた際に「あれ?」とふと気づいた事、それをちょっと書いてみようかなと思ったので、今回は雑記というか戯言をしたためる。

「行き違い」という言葉を投げかけられてもまず、「主語がありません」な状態で、一体何を指して言ってるんだか分からない。
人と人との関係性の行き違い?考え方の行き違い?
実は今回これを書きたくなったのは、「自分と時代との行き違い」に今更ながら気付いてしまったから、そういうことなのである。

■正確には20~25年程(あえて曖昧に)

という事になる。
25年前の私、インターネットが無かった、「パソコン通信」というものを主体として、今の主たるログネーム「魚住空理」ではなく、別の名前を名乗っていた頃の私。

その25年前、自分が何をやっていたかって、多分某大学に在籍しながら、好きな講義には出るけど嫌いな講義には絶対出ない、大学前のゲーセンとかで遊び呆けてたりしてたと記憶している。
今でも私は自分の両親に対する脅迫観念というか、強制力が強いほうで、とかくアレしちゃダメ、これしちゃダメ、という、「間違った過保護下」で育てられていたことが尾を引いており、はっちゃけてもブレーキがかかりやすい性分がなかなか治らない。
それ自体がどうこうというつもりもなく、どちらかというとその強制力から解放された実感が一番あったのが25年前頃だった。

私は「パソコン通信」にハマっていたと言ってもかなり限定的であり、当時は今みたいに通信環境に優しい通信料金体制ではもちろんない状況だったため、いわゆる大手「ニフティーサーブ」「PC-VAN」といったところには一度も踏み入れたことがない、ニッチでローカルな草の根BBSを転々としていた・・・というより、数か所でかけもち的に交友を持っていた。
そこで出会った人達は良くも悪くもいたって新鮮で、・・・正直自分が通ってる大学に対して、「誰も彼も同じようなかんじで、個性が感じられず、さほど魅力を感じない」環境からシフトするのに凄く魅力を感じるところだった「のが災いしてた。」

今でも忘れない「パソコン通信」を始めた初年度。
それまでにないほどに出かける事が多くなり、その理由がその一年だけでその後全くペースダウンしたけど、振り返ったら50回以上はどこかのオフ会に参加してた、ということ。
で、結局それが一つの勉強になって、じゃあ今度は自分が、自分達がオフ会を主催する側になろうってことで、今は亡き恩人の傍らで、或いは自分達だけでオフ会をやって勝手に盛り上がって行こうという方向に傾いた。
最初期はただただ、お絵描きさんが集まって、合作とかラクガキとかやって遊ぼうぜってだけの会だったのが、すぐに形を変えて、会場貸し切るから参加者が好きなことやって遊べるスペースで一日共有しようぜってオフ会に変化していった。
ちなみに人生の中でたった一度だけ、同人誌に参加した、というのもこのオフ会がきっかけで、それ以降、同人誌は一切出さないし参加しないと決めたのもそれが故だった。
これも良くも悪くも色々な勉強をさせてもらった。
全くズレたところを生きてきた私自身に生涯の中で一番激動で色んな方向性を示唆してくれた出会いがあったのがこの時期だった。
私自身が我が強いため、何度も色んなところで衝突があったり、仲直りしたりを繰り返して、それでも色々と尖ったままで過ごしてた、言いたくないけど「若い頃の自分」だった。歳食うたわ・・・(´・ω`・)

同じ頃、当時の友人や先輩が私の下宿に遊びに来ることが多く、近所で麻雀やったり、カラオケ行ったり、TRPGやったり、普通にTVゲームを夜通しやったりしてたのを思い出した。
それが今回の冒頭で述べた同僚と昼飯時に雑談した件。
何故だか「とにかく百番勝負をする」というのが定番であり、ぷよぷよ百番勝負やクォース百番勝負や他対戦格ゲェ百番勝負や桃鉄99年フル完走までやり続けるっていうアホアホライフを送ってた。
友人とのビリヤードではローカルルールがあり、ファウルをカウントするごとに100円ずつ罰金として積み立て、お互いにジャラジャラ貯め込んだ100円玉を帰りにコンビニ寄って募金箱に激しくぶち込む日常だった。
確か最高額がソレで3000円ほどジャラジャラやらかして、コンビニの店員に「なんじゃこいつら!?」と思われるのが快感だった(・Д・)-3

「さぁぶっとばそうぜの会」だって、結局は友人との協力があって初めてできたもので、レンタルカートで遊んでこようぜ、とりあえずレースやんねぇしタイムアタックで勝負な、というのを毎度毎度やってた。
諸行無常、フォーミュラクラブKBEは震災で壊滅し、私が走馬灯を見たフォーミュラクラブNRAや某氏がスーツ姿で颯爽と現れファステスト叩き出して颯爽と帰って行ったフォーミュラクラブKYOは今や影も形も無い。
よく利用させてもらってた舞洲グランプリパークも無くなってしまった。
※舞洲インフィニティサーキットは現在運営されてるけどもそれ以前に存在したとこ。

・・・とか、まぁまぁ楽しかった事も嫌な事もいっぱいあったけど、大声で笑って大声で泣いてを繰り返していたあの頃があった。やっぱおっさんくさいな(´・ω`・)

■最近ヒカルさんの動画を良く観る。

ヒカキンさんとかも面白いけども何かちょっと馴染めなかった。
他諸々のYouTuberと呼ばれる人の動画もそう琴線に触れてこない。
ヒカルさんの動画を見た時、多分祭り動画が最初で、余り印象は良くなかったんだけども、何か引っかかったところがあり、彼の動画を「ながら」でありつつも面白がって見ている。
単純に頭いいなぁ、と思うし、笑いや興味を引くところのツボがよく研究されてるなぁと思うし、他諸々と比べても個人的には一歩抜きん出てた。

それが今回の戯言と何の関係があるんだ?・・・という話になるんだけど、ぶっちゃけこう思ったわけ。
20~25年前に今の環境があったなら、自分はもっと違った自分になれていたかもしれない。

別にヒカルさんのように超有名になるまで、ヒエラルキーの頂点近くで、あるいはヒカキンさんのように頂点を極めていたかもしれない、と言っているのではない。
しかし、自分は自分のアプローチで、ヒカルさんと同じくらいの年頃で動画制作環境を有し、当時の知人達と協力して、そしてあの頃のバイタリティで色々やらかしてたら、それはまた別の景色が観れてたんじゃないかなぁ、と思う。
こればっかりは「今からでも遅くはない」なんて言葉は通用しない。
あの若さとか、向こう見ずさとか、今考えたらアホやなぁアホやったなぁ、とこっぱずかしくなることとか、色々混ざって、それができる年齢であることにチャンスがあったわけだ。
変なところで引っ込み思案だとか、何か落ち込むことがあるとすぐに自殺願望ばかりが先走ったりとか、若い頃なんか今以上に超沸点低いから度々炎上してぶっ叩かれて追い詰められたりとか、割と想像に難くないけどもw

若い頃って、正社員登用されるチャンスがあったとしても「いやです。会社組織に組み入れられるのだけはマジ勘弁っす。」とか言って、一匹狼貫いてたのにいざ精神も肉体も一度ぶっ壊れると途端に守りに入っちゃって、あれ?私って組織の中に組み敷かれるの嫌がってなかったっけ?って近頃ふと思い出したりする。

繰り返すけど、「あの頃YouTubeと配信環境さえあれば、私絶対成功してたのになぁ。」なんてバカげた事を思ったわけではない。
例えば、Pixivというお絵描きSNSができたときに・・・あの時ほど今のお絵描きさんの恵まれた環境を羨んだことはないわけさ。
昔、パソコン通信ローカルで絵師板のサブオペやってた側の立場としてはね。
いちいちさ、ダウンロードしたら感想返してあげてくださいね、とか、強要するものではないフィーリングの良し悪しを言葉として求めなきゃいけなかったわけだ、当時は。
今何かその環境が完全に整備されてるし、グッズ販売するインフラまで整っちゃってるんだからすげぇよな、ほんとやる気だけだよな、腐ろうが知名度向上だけに利用しようが、このインフラをうまく使えたモン勝ちだよなって思うし、そんなものは私が若い頃には無かったのだよ。

今ほどクリエイターに超優しい環境になってるのって、本当に今の若い人達は羨ましいって感じる。
正直、そこに辿り着くかどうかは別として、25年遅れて生まれたかった感はある。

話をちょっとだけ戻すと、友人と非公式(?)ではあるし殆ど表に出てきてないけど、ビジネスにつなげようともしてなかったけども、企画ユニット的なものを組んでた。
具体的に何をやってたかって、オフ会のやり方提案しまっせーとか、こういう人が居てこの人と繋がるとメリットあるかもしれまへんでーとか、そういうことやってた。
つい最近知ったけど、そういうのビジネスにしてる会社さんも実際に出てきたわけ。
アレをもっと知識の幅拡げたりとか、アイデアをうまいこと昇華してたりとか、成長させていってたら、・・・要するに頓挫することなく継続していたなら、それもまた違う景色見てたかも知れない。
公然と「好きなことだけやって生きていく」ことができてたかもしんない。
お金の使い方とか増やし方とか知らなかったんだよな。
そもそも30超えてもオコチャマ根性丸出しだったから、ビジネスライクな考え方は汚いとかそんな風にしか物事が見えてきてなかったのが敗因だわな。

こんな辺境ブログを誰が読むとか余り考えてないけど、今若い人に言えるとしたなら、今の若い人って想像以上にチャンスが転がってるし、それを補助してくれるツールも昔と比べたら段違いに多いんだから強く生きて><。ってことかなぁ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA